応無所住 而生其心
「応に住する所無うして其の心を生ず」、私どもには毎日いろいろな心が生じますけれども、それがちゃんと出所があるのです。住する所があるのです。人に小言を言うのでも、何か失敗した時にパッとその場で出る小言は自分も苦にならぬし、言われた方も別に苦になりません。それが一日も二日も心の中でくすぶって、あんなことをしてどうも行き届かんやつだ、もう言おうか、言うまいか、言おうか、二日も三日もくすぶっておって、そこで小言を言うものだから、さっぱりその小言がこげつきで相手に感銘が与えられない。相手に小言を言うことよりも、自分の心の中で自分が自分の心に激昂してしまう、のぼせてしまう。一つの例でありますが、われわれの心というものは、そういう不純なものだ。人さまにご挨拶をするのでも、心の中で何とか練って考えて言ったりいたしますから、皆な嘘になってしまう。そうではなくして心が無である、「応無所住」、どこにも住しない、心が空っぽであって、その時に面白いと言うて笑い、悲しいと言うて泣いたら、それがそのまま仏心でなければならない。心に裏づけのない斬新な心が仏の心でなければならんのであります。そういう新しさというものが私どもの心にいつもなければならん。意識がいつも新しくなければならん。花が美しいのは新しいからで、古い花は咲いておりません。朝顔は毎朝新しい花が咲くから美しいのだ。昨日の花はやり直しをやらん。山の谷川の水が美しいのは、新しい水が流れていくからです。われわれの心も念々新しい心が出てまいりますならば、泣こうが怒ろうが笑おうが、これが仏の心である、仏心である。子供は比較的そうなんであります。心の中に魂胆がない。そういう無邪気な、無心な心、いつも新鮮な意識で生活できることが仏心というものでなければならぬはずであります。